今日、11月21日はヒクソン・グレイシー(Rickson Gracie)さんの誕生日。
おめでとうございます!
ということで久しぶりに私のTシャツコレクションを更新。
私のTシャツコレクション(4)はヒクソン・グレイシーTシャツ。
1959年11月21日生まれなのであのヒクソンも59歳。
来年還暦です。
2000年5月26日、コロシアム2000での船木誠勝戦を最後に試合をしていません。
さすがにもう試合することはないでしょう。
私は、来日初の試合となった
1994年7月29日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1994(東京ベイNKホール※千葉県浦安市)
西良典、ダビッド・レビキ、バド・スミスに勝って優勝。
と、
1995年4月20日、VALE TUDO JAPAN OPEN 1995(日本武道館)
山本宜久、木村浩一郎、中井祐樹と日本人に勝って優勝。
(中井さんがジェラルド・ゴルドーのサミングによって失明されられた)
の2試合を会場で観戦。
バーリ・トゥード・ジャパン・オープン 1995の時は、リングスファンだったこともあり山本宜久選手を応援していました。
この大会のビデオは購入していて、たまに山本宜久のがんばりを見て勇気をもらっています。
ようやく若手から脱却したばかりの選手が当時世界最強(400戦無敗のキャッチフレーズで来日し、前年は3試合とも危なげなく勝って優勝。その後、安生洋二を道場マッチで敗ったり、初期UFCで勝ち続けていたホイス・グレイシーが「自分の10倍強い」と言っていたりで)と思われていた選手に果敢に挑み、フロントネックロック(フロントチョーク)でヒクソン敗れるか!?というあわやのシーンを作りました。
最後はバックマウントからのチョークで失神させられましたが、公式の試合でヒクソンをもっとも苦しめたのがリングスジャパンの山本宜久であると思っています。
PRIDEでの高田延彦との2試合、コロシアム2000での船木誠勝戦(いずれも東京ドーム)は会場では観戦していません。
山本宜久戦は山本を応援していましたけど、ヒクソン・グレイシーのファンでもあったので、高田戦、船木戦はヒクソンを応援していました。
さて、前置きが長くなりましたが、ヒクソン・グレイシーTシャツについて。
ボディはヘインズ(Hanes)のビーフィー(BEEFY)で
FABRIC MADE IN U.S.A.
ASSEMBLED IN MEXICO
とありました。
生地はアメリカ産、縫製はメキシコ。
で、プリントはおそらくアメリカでしょう。
ヘインズ(Hanes)のビーフィー(BEEFY)は高品質Tシャツの世界標準として知られているので、ヒクソンも品質を評価してこのTシャツを採用したんじゃないかと思います。
サイズは ADULT L (42-48)
ヘインズ(Hanes)のビーフィー(BEEFY)は6.1ozとのことですが、そんなに厚みを感じません。プリントスターの5.6ozよりはあるけど、ユナイテッドアスレの6.2ozよりは薄く、感覚的に5.9ozくらいの感じです。
デザインは、
黒ボディにシルクスクリーンプリントで表は、左胸にワンポイントで
ヒクソン・グレイシー柔術のロゴマーク。 (黄色とオレンジの中間色の山吹色)
ナイキのロゴマークを逆向きにしたものを3つ合わせたようなデザインで、下が水平のバランスが取れた正三角形。
裏は背中に大きくロゴマークがあり、その下に白プリントで
RICKSON GRACIE JIU・JITSU
とあります。
購入したのは上記で書いているバーリ・トゥード・ジャパン(VTJ)の会場か、水道橋にあったプロレス格闘技専門のレンタルビデオ店か、同じく水道橋にある格闘技やトレーニング用品を扱う「フィットネスショップ」だったと思います。
ヒクソンによってグレイシー柔術(この名称は確かお兄さんのホリオン・グレイシーが商標登録?)、ブラジリアン柔術、そして日本の柔術の素晴らしさが世界的に広がり、格闘技、セルフディフェンスとしてだけでなく、心身と頭を鍛える武術としても知れ渡ったのは大変うれしいことです。
息子のクロン・グレイシー選手にもまた日本で試合をしてもらいたいですが、日本の多くのファン(本当の格闘技ファンではなくライト層の多く)はクロンが負けるところを期待しているのと高額なファイトマネーから大晦日のRIZINも参戦は難しいかもしれません。